カテゴリー: アジア内海

ベトナムの古い港町ホイアンへ・1

お正月休みを利用して、ベトナム中部の古い港町であるホイアンを訪ねた。旧市街が世界遺産に登録されて以来、ホイアンは観光地としても名高い。
ホイアンはホーチミンやハノイと同じく、デルタ地帯の河口に形成された港町だ。江戸時代初期には、日本との御朱印船による交易港の一つとして栄えた。当時は日本人町が形成され、600人くらいが住んでいたという。中華街との間に架けられた、日本橋と呼ばれる木造橋が現在も残っている。博物館には日本からもたらされた染付が、多数展示されている。ホイアンから輸出された陶磁器は、焼き締め陶も磁器も安南と呼ばれ茶器として使われた。当時の安南茶器は、現在でも数多く日本に残っている。
遊び半分で博物館を見て回る。ハンネラの水差しも無造作に展示している。
次の日は小型船をチャーターして、河口まで連れていってもらうことにした。シングルプランキングの木造艇だ。エンジンは横型のディーゼルだ。クランクを手動で回せば、一発でかかる。デルタの河口は日本の河川とは水流が全く異なる。川の流れはないかのごとくだ。むしろ潮汐による潮流の影響のほうが強い。上げ潮流を避けるためか、小型船は本流を避けて、脇の水路を4ノットほどで河口へ向けて下っていく。建設中の河口を跨ぐ巨大な橋を越えると、うねりが入ってきだした。ホイアンへの目印である灯台が河口の洲の中ほどに見える。
「もう戻っていいですか」
「はい、戻ってください。ところでここの水深は何メートルですか」
「3mです」
帰途は川の本流を走る。御朱印船の人達と同じ気分になってくる。外海から河口へ入った途端に波はなくなる。当時も入港は嬉しい瞬間だったことだろう。
「ここは何メートルですか」
「2mです」
そのうちホイアンをヨットで訪れることになるだろう。往復3時間かかった。チャーター料は3500円だった。

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沖縄県立博物館から戻る

7月9日から12日にかけて、沖縄県立博物館・美術館と浦添市美術館へ調査に行く。沖縄の船舶古絵図を調査するためだ。
関西空港からの沖縄便は、台風接近ですごく揺れる。ヨットがヒールするより、遙かに恐ろしい。那覇空港からレンタカーで、博物館へ直行する。牧野さん、崎山さんはすでに到着して、待っていてくれた。学芸員の園原さんが立ち会ってくれて、早速「進貢船の図」を熟覧する。ヨット乗りが二人一組で記録していくので、調査は以外にはかどる。

二日目は、首里那覇港図屏風の調査だ。展示中の原本を見せてもらった後、パソコンで詳しく調べる。掲載されている進貢船を初め、サバニなど70隻近くを全て調べてカード化した。皆へとへとになり、懇親会場の「ままや」へ向かう。懇親会には崎山さんの友人である、泰山さんが来て下さり、お話を伺う。確かな歴史認識に裏付けられた「沖縄協議離婚論」は、迫力がある。古酒を2,3倍飲んで、解散する。

三日目の調査は、浦添市美術館の「琉球交易図屏風」だ。今日は西野さんが合流してくれた。西野さん、牧野さんは信天翁24で、本土から沖縄へ航海したヨット乗りだ。二人とも、ヨットは糸満へ置いている。
浦添市美術館の学芸員、當山さんの立ち会いの下、無事調査を終える。その後に、美術館で開催していた宮城清漆芸展に立ち寄る。螺鈿の制作から作品の全ての工程を、独力で完成させた技術者だ。生涯を掛けた探究心に、頭が下がる。皆と別れてから、また美術館へ戻る。宮城さんが居たので、螺鈿の香合を注文した。

四日目は飛行機の出発にまだ時間があったので、知念、奥武島をまわり、「淡すい」で沖縄そばを食べる。店はプレハブ小屋だが、すばはスープがあっさりしていて、うまい。

マスクをつけた調査員
パソコンで画像を拡大する
サバニに曳航される進貢船
牧野さん、泰山さん、崎山さん
島らっきょう
ジーマミどうふ
牧野さんと泰山さん
浦添市美術館
これは難しい船だ
ディスカッションしながら判別
調査チームと當山さん
進貢船の乗組員の動作
三枚肉すば
糸満の淡すい

 

日本の海岸線長さは世界6位

日本の国土面積の広さは、世界で62位であるが、海岸線長さは6位である。国土面積が少なく、そしてさらに平野部の狭小さを考えると、日本はこれまで言われてきたように、果たして農業国と言えるのだろうか。
明治以前には、百姓は農民を意味するのではなく、一般平民を指していた。農民だけではなく、漁民、船乗り、職人、商人、その他の職業が含まれている。水呑み百姓といわれる人たちが、田畑は持たないけれど、多くの石高を納税していたことが、明らかになってきた。塩、炭、布、木材などの農業以外の生産や流通によって、利益を上げていたことが知られてきた。税金の単位を石としたために、日本は農業国だと思いこまれてきたのではないか。

100年前には、海や川辺の住民は、隣町へ行くのさえも船を利用していた。1889年に東海道線が開通するまでは、東京大阪間さえも、海路なら3分の1の、4日で行くことができた。それを実行できる造船術、航海術、操船術が完成していたと考えられる。
人の交通はもちろんのこと、はるかに大量な貨物を、陸路より迅速に運搬できるのが船舶だ。小舟でさえも馬の5倍の荷物を積載することができる。

日本は世界で有数の海岸線長さを持つ。船舶が通行できた河川も多い。その自然条件が、歴史と文化に与えてきた影響を考えてみよう。

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アジア内海国の海岸線長さ順位

海岸線長さ順位 国名 海岸線長さ(km) 国土面積(km²) 国土面積順位
1 カナダ 202,080 9,220,970  2
2 ノルウェー 83,281 324,220  68
3 インドネシア 54,716 1,826,440  15
4 ロシア 37,653 16,995,800  1
5 フィリピン 36,289 298,170  73
6 日本 29,751 374,744  62
7 オーストラリア 25,760 7,617,930  6
8 アメリカ合衆国 19,924 9,158,960  3
11 中国 14,500 9,326,410  4
23 パプアニューギニア 5,152 452,860  55
28 マレーシア 4,675 328,550  67
32 ベトナム 3,444 325,360  66
34 タイ 3,219 511,770  51
45 北朝鮮 2,495 120,410  99
50 韓国 2,413 98,190  109
55 ミャンマー 1,930 657,740  40
64 台湾 1,566 32,260  138

 

沖縄の県立博物館を訪問

関空からマイレージを利用して、那覇へ行く。那覇からはレンタカーで糸満へ直行する。青木ヨットから購入頂いた信天翁24が2隻、糸満フィッシャリーナに係留されているので、まず見に行く。サバニ・ヘンサーも保管してもらっている。みな異常はなさそうだ。

糸満と言えば、海人(うみんちゅう)のまちだ。海人であった上原初保も、玉城剛も、もう亡くなってしまった。挨拶も抜きに、まず結論から述べる。彼らの言いたい放題の話は、いつも楽しみだった。琉球の船と航海を研究するきっかけは、彼らの影響を受けたからに違いない。

大航海時代と言えば、中世のヨーロッパを思い浮かべる。しかし中世の東アジアでは、ヨーロッパと並ぶほどの大航海時代が、繰り広げられていたのではないだろうか。その舞台は、ヨーロッパの地中海に対して、アジア内海と呼ぶべき大陸に沿った海域ではなかっただろうか。その仮説を確かめるために、文献調査を進めている。
中世のアジア内海で最も活躍したのは、琉球の船であることが、先達の研究によって明らかにされつつある。どのような船で、どのような操船術で、どのような航海術でその航海を行っていたのだろうか。日本は稲作が渡来して以来、農業国であったととされている。本当にそうなのか。日本の歴史と文化を航海者の視点から再考するために、琉球の航海と交易の歴史が糸口となるに違いない。その事前調査のために、沖縄県立博物館を訪問することが、今回の目標だ。

糸満の友人と久しぶりに再会して、夜は琉球料理で宴会だ。大城さんは漁船の造船所を経営している。慶良間へ修理に出張していて、今日戻ったところだ。崎山さんは県立博物館の館長と知人だそうだ。明日は同行してくれるという。

 

糸満の極楽蜻蛉は大阪から
イーストマリンは千葉から航海
イッペーの花が満開
糸満の魚は意外と高価
糸満の友人たちと酒盛り
港川人がいた県立博物館
人類はアフリカから伝播したのか?
今話題の琉球三省并三十六島之図
歯にしみる冷たさ、富士屋のぜんざい
あっさりと深い味、てんtoてんの沖縄そば

航海者から見た、アジア内海の船と航海術・・・目次

航海者から見た、アジア内海の船と航海術・・・Preview

1. 航海者からアジア内海を位置づける

2. アジア内海の船と航海技術

  • 2-1 船の多様性と共通性
  • 2-2 航海記録から見る航海術
  • 2-3 乗組員の役割と、操船術

3. アジア内海の大航海時代

  • 3-1 アジアの大動脈、沿海州からミャンマー
  • 3-2 繁栄するアジア内海の港湾都市

4. 日本の歴史と文化に与えた海民の影響

  • 4-1
  • 4-2 農民と海民のリーダーシップ
  • 4-3 海民の価値観と宗教

5. 出典一覧

 

 

航海者から見たアジア内海の舟と航海術

1-2 アジア大陸に沿った帯状のアジア内海

前回に示した大陸側から見た地図を眺めると、アジア大陸に沿った、帯状の海域が存在することに気がつく。大陸側の北方はロシア沿海地方から始まり、南方はミャンマー(ビルマ)まで至る間の海域である。海側には日本列島弧、台湾、フィリピン、ブルネイ、インドネシアの島々が横たわる。大陸側と島々とにはさまれた間の帯状海域は、広いところで東西幅が約490マイル(海里)、南北の全長は図の赤色矢印で、4800マイルに渡る。太平洋を横断するのと代わらない長大な帯状海域が、アジア内海として横たわる。

このアジア内海を地中海と対比してみよう。地中海の東西長さは約2100マイル、南北幅は約480マイルだ。アジア内海の大きさは右図の赤線で表わした地中海に比べ、約2.5倍となる。
地中海は先史時代から、すでに舟による交易が行われてきたことは、よく知られている。木材、鉱物、農水産物、それらに加えて、フェニキア人の貝紫なども高価な交易品であった。陸路が整備されていない当時では、海路の運搬時間は、陸路に較べ遙かに早く、安全であったに違いない。さらに船は馬に較べ、3倍から100倍の積載能力がある。そして地中海が小舟の航海に適した海域であることは、すでに考古学が明らかにしている。

しかし地中海と同様にアジア内海が、小舟にとって航海に適した海域であり、舟による交易がその沿岸国の歴史と文化にに大きく影響を与えてきたことは、まだ十分に明らかにはされていない。むしろ日本は稲作が始まった古代から、農耕社会、農業国であったという考えが根強い。しかし実はアジア内海は舟を操る航海者、海民が交易に活躍した舞台であり、その影響が日本の歴史と文化に大きな影響を与えてきたことを、先哲の研究を土台にして明らかにしていきたいと考える。

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アジア大陸に沿った、帯状の海域がアジア内海

アジア大陸に沿った、帯状の海域がアジア内海

アジア内海の大きさは赤線で囲んだ地中海に比べ、約2.5倍

アジア内海の大きさは赤線で囲んだ地中海に比べ、約2.5倍

 

 

 

 

 

 

 

航海者から見たアジア内海の歴史と文化

1-1 大陸側から見た日本列島弧の位置

島嶼問題を巡り、国家間の関係がぎくしゃくしている。日本列島弧の側から見れば、国境の境界に関わる問題と受け止めて、領土領海の拡大縮小に結びつけて、感情的な反応に覆われているようだ。さらに海底に眠るといわれている資源が、問題を複雑にしている。

日本列島は地図上では、アジアの辺境に位置しているように見える。ほとんどの地図は、北が上方に設定されているので、日本はアジア大陸の端っこに描かれている。東側は広大な太平洋が広がるので、その地図を見慣れた目には、どうしても辺境意識が蓄積されていく。

しかしその地図を回転させ、大陸側から日本列島弧を見れば、どのように映るだろうか。列島は単なる辺境から一転し、大陸から太平洋への出入り口を塞ぐ、長大な関門となる。太平洋へ出る島嶼間の関門を、容易に閉鎖される状況では、大陸側の艦隊指揮官はたまらないだろう。すると北方4島、竹島、尖閣諸島、パラセル諸島、スプラトリー諸島などの領有権問題が、境界や資源だけでなく、さらに重要な意味を持ってくる。辺境の日本列島弧が、大陸に対して優位な地理上の位置を占めるのだ。

日本では地政学(Geopolitics)が重要視されていないようだが、地理的な環境が国に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、多角的な視点で研究する必要があるのではないだろうか。

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アジアの辺境に位置する日本列島

アジアの辺境に位置する日本列島

大陸側から見た日本列島弧

大陸側から見た日本列島弧