坐禅

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8月9日の月例坐禅会は台風接近のため中止

来月の慈眼院坐禅会は9月6日(土)の午後6時30分からです。

7月の月例坐禅会に参加

7月26日に泉佐野市の山手にある古刹、慈眼院での月例坐禅会に参加した。猛暑日だったので来る人は少ないだろうと思っていたが、予想が外れて7名の参加者であった。

坐禅をしても、とても暑い。坐禅をすれば、「心頭を滅すれば火もまた涼し」とも言われるようだが、そんな訳にはいかない。坐禅の最中は、なんとか暑さにとらわれずに、只今の課題を熟考するだけで精いっぱいだ。

坐禅が終わると汗だくだ。書院へ移ると、部屋はすでにクーラーが入ってて、涼しくなっている。和尚様がご用意してくれた冷たいお茶を皆でいただきながら、ご挨拶する。今日は坐禅が初めての参加者もいる。ささやかな市民坐禅会であるが、坐禅を試したい方に少しでもお役に立てばうれしい。

駐車場の芝桜
鐘楼と本堂
門を入る
本堂で坐禅
書院でお茶をいただく
涼しげな書院のお花

月例坐禅会へ参加する

5月10日の、慈眼院で行われた坐禅会に参加した。今月は6名の参加者だ。

今年もまた花の季節が巡ってきた。慈眼院の駐車場には鳴子ユリが群生して、一斉に咲いている。門をくぐりと右側のうっそうとした木立の間からは、大山蓮華が白く顔を見せている。近づくと一帯に、いい香りが漂っている。

寒くはなく、暑くもなく、蚊もまだ出てこない。坐禅にはまたとない季節だ。いつの間にか3時間が過ぎていた。南寿明和尚様にご案内してもらい、皆で大山蓮華を観賞する。暗がりに白く浮き上がる姿と、濃厚な香りにうっとりとする。

鳴子ユリ
芝桜
大山蓮華
本堂で坐禅
書院の花

3月1日の月例坐禅会に参加

市民坐禅会の会場として毎月使わせて頂いているのは、泉佐野市の山際にある慈眼院だ。慈眼院は673年に、天武天皇の勅願寺として創建された泉州の最古刹である。国宝の多宝塔をはじめ、重文の金堂などの文化財でよく知られている。前住職の南揚道和尚は、仁和寺49世門跡として高名である。
坐禅会は現住職である南寿明和尚のご許可を頂いて、慈眼院の本堂で行っている。ご本尊である薬師如来像の前でじっと坐り、静寂な時間を味わう。本堂には、いつも貴いお香が満ちている。この上もない贅沢と言って良いだろう。
毎日、目の前の仕事に追われている。次々と仕事をこなしていかねばならない身の上だ。むかつくことも出てくる。ストレスもたまる一方だ。坐禅会は1ヶ月に一度ではあるが、私にとっては自分自身と向き合い、心のバランスを保つために貴重な時間だ。他の参加者との、座談も楽しみだ。座談には寿明和尚も加わっていただける。お茶を飲みながらの、肩のこらない談義だ。

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書院には春の花

1月25日の月例坐禅会に参加する

今日は6名の参加者だ。温暖前線が接近しているためか、暖かい。本堂の中よりは、外の方がむしろ暖かく感じる。
坐禅を終え書院へ移る。部屋の中も、テーブルもいすも、すでに暖かくなっている。ずいぶん前からストーブをつけてあったに違いない。熱いお茶とお菓子で、ほっとする。1ヶ月の間にたまったストレスが消え去り、新たな意欲がよみがえってくる。活けられたお花にも、まだ新年らしさが残っている。今年も頑張っていこう。

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12月8日の月例坐禅会

きのうは、嵐だった。大阪湾では西風が15m以上吹いている。海上は白波だらけだ。時折あられまで降ってくる。練習に出ていったヨットも、すぐに帰ってきた。

仕事を終えてから慈眼院へ行く。入り口を開け放して堂内へ入る。この寒さでは、私一人に違いない。一人坐禅も楽しみだ。慈眼院で坐禅をさせて頂くようになって、15年はたつ。初めの一、二年は一人で坐るときが多かった。これまで参加された人たちを思い出しながら、座布団を並べる。しかし定刻の1830時になると、いつもの方々が3名入ってこられた。なんだかほっとする。

坐禅が終わり、書院へ集まる。部屋は石油ストーブで暖かい。事前に火を付けて頂いていたのに違いない。嬉しいことだ。南寿明和尚様から、修業時代の話を聞く。高野山の冬は、零下10度になるときもあったそうだ。「そこにいると、なれますよ」。軽い一言だが、その意味は重い。修行は、その現場で実地に練習することだ。零下10度下で坐禅すればどうなるのだろう。修行にはゴールとプログラムがあるからこそ、苦痛も耐えられるし、練習にもなる。限界も広げていけるのだ。ヨットの練習も同じだ。楽をするだけでは、身につかないと言うことか。

書院の花

書院の花

11月3日の月例坐禅会

18時に会社を出て、慈眼院へ向かう。駐車場へ車を止め、門前で一礼する。本堂へ入ると、すでに6名の方が来ておられた。坐禅は初めてという2名の方に、坐禅法を説明する。
肌寒い夜だが、瞑想はとても深まる。いつの間にか2時間が過ぎている。みなで南寿明和尚様に挨拶し、書院でお茶を頂く。いつも熱いお湯と、お菓子がテーブルに並んでいる。丹波の船徳利に、野菊と山ホトトギスが入れられている。慈眼院で坐禅をはじめさせて頂いてから、もう15年になる。当初の1年間は、一人坐禅が続いた。その後も続けることが出来るのは、お寺のおかげだ。

初めて参加された二人は、ヨットをされているとのことだ。能動的なヨットと、動かない坐禅。面白い取り合わせだ。
キリスト、ムハンマド、ブッダ、三大宗教の創始者は皆、瞑想を経て啓示を受けている。そのさらに2000年以上も前に遡り、すでに瞑想が行われていた。宗教として形をなす前から、瞑想が行われていたのだ。従って今更、宗派や教義にとらわれる必要はない。これが唯一の正解だと言うこともない。自分の課題を率直に見つめるために行う。感情にとらわれないで、課題を360度の角度から眺める。そして自分の得た結論は常に疑う。
柳田聖山先生の一言を思い出す。「宗教は疑うものや、信じてはいかんで、疑って疑い尽くさないかん」
古田武彦先生も、そうであるに違いない。だからこそ、揺るぎない自信が持てるのだ。